指先の白昼夢

back numberさんの曲を元にしたお話やオリジナルなどなど

届かない歌

平日の午後4時——

西日が降り注ぐ中ぼんやりと歩く男が一人。
いくつか皺の寄ったシャツにチノパン、足元はソールのすり減ったビルケンシュトックといった格好で手には飲みかけの缶ビールを持ち、虚ろな目をしている。
職質をかけられそうな出で立ちではあるが、幸いこの道は警察の巡回ルートからは外れている。
大通りから2つほど外れていてすぐ横には線路が走り、常にけたたましく警告音が響く開かずの踏切を渡らなければ通れないせいか人通りはほぼない。
今日も一台の自転車が男を追い抜いた他に通る人はいなかった。

***

「ねぇ司、こっち通って帰ろうよ!」

有以子は何故かこの道を好んで通った。

「はぁ?またかよ…遠回りじゃんよ…!」

司はいつも抵抗するが、最後には有以子の笑顔に負けて手を繋いで歩いた。

「この道の何がそんなに好きなの?」

「えーだってさ、踏切の音がうるさくて耳元で話さないと会話できないじゃん?
その距離感がなんかドキドキするっていうか…。」

踏切の音に負けないように少し声を張り上げ体を寄せて話しても、恥ずかしさに負けたのか語尾は踏切の音にかき消された。

付き合って1年が経っても有以子は司が大好きだった。
そんな有以子を司もまた愛しく思っていた。
可愛いなと思いつつ何も言葉が出てこない司は、代わりに有以子を見つめる。
少し痩せたな、と思っていると前を向いていた有以子が視線に気づき司を見る。
「なーに?」と笑う有以子の手を司は強く握り直した。
カンカンと鳴り響く踏切の音に金木犀の香り。この幸せが永遠に続けばいいと司は思った。

***

司は相変わらず虚ろな目で道を歩く。
ふわっと鼻をかすめた香りに懐かしさと愛おしさがこみ上げ、またこの季節が来たんだな…と司は思う。
秋が来るたびに香る金木犀は否応無しに昔の記憶を呼び覚ます。
目を瞑り、鼻から思いっきり息を吸う。
脳裏に浮かぶ笑顔に、目頭が熱くなる。
今年は司にとって有以子がいなくなって3度目の秋だ。

司は音楽をやっていた。
時には公園で、時には駅前で、またある時は静まり切った夜の商店街で、オリジナルの曲を披露していた。
ありがちなラブソングを奏でながら、いつか陽の目を浴びる日を信じて昼は派遣の仕事をしながら音楽活動を続ける日々。
有以子とは派遣先の上司と部下という形で出会った。
4つ年上の有以子は会社ではテキパキと仕事をこなし周りからの人望も厚かった。
「私は自分でそれなりに稼げるし、家事もできるから司は少しでも音楽に専念しなよ。」
そう言って同棲することを提案してくれた有以子は誰よりも自分の夢を応援してくれている、司はそう思っていた。

「司ごめんね。
私もう、司と一緒にはいられない…」

ある夜有以子が独り言のようにぽつりと呟いた。

「え?」

「私、もう32でさ。そろそろ焦っちゃうんだよね。
その…結婚とか?」

付き合って2年が経っていた。
司は派遣先を変えて勤務時間を短くし音楽活動を続けていた。
ファンもついて小さなライブハウスでライブを行えるくらいにはなって、これからだという時。
有以子もそれは分かりきっていたのだろう。

「でもね、司に私の焦りを押し付けて背負わせる気はないの。
司には夢を追い続けて欲しい。
だから…ごめんなさい…」

零れ落ちる寸前まで溜まった涙を司に見せないように有以子はそっと家を出ていった。
有以子が結婚したがっていることを司は薄々気付いていた。
でも軌道に乗ってきた音楽を捨てる勇気はなく、かと言って有以子に別れを告げる優しさも見せられなかった。
言ってこないのなら知らないふりをしておこう、都合のいい答えを出して現状維持を貫いていた司に、有以子を追いかけることはできなかった。
有以子がいない静まり返った部屋の中、心のどこかでほんの少しホッとしている自分がいることに司は気づいていた。

翌日仕事から帰ると有以子の荷物は綺麗になくなっていた。
1人分の荷物がなくなり広くなった部屋を見渡す。
食器棚にはお揃いのマグカップがそのまま置いてあった。
同棲を始めてすぐ、家から歩いて行ける距離にある雑貨屋で有以子と2人で選んだものだ。
毎朝寝起きが悪い司のために有以子はコーヒーを淹れた。
毎朝コーヒーを飲むのが日課になり、司も起きる時間が少し早くなった。

クローゼットを開けると、ハンガーにコーディネートされた服が3セットかけられていた。
「どっちがいいかな?」
洋服に疎い司はライブの度に何を着るか有以子にアドバイスをもらっていた。
ハンガーには付箋が貼ってある。
「もしよかったら今度のライブで着てください。
司の歌が大好きです。歌い続けてください。」

心がぎゅっと握られたように痛む。
足元から血の気が引くのが分かり、膝から崩れ落ちる。
有以子はいつだって司を想ってくれていた。
家を出る最後の最後まで考えてくれていたのだ。
堪らず家を出る。履歴から有以子の番号を探し、電話をかけた。
何度も鳴る呼び出し音が途切れることはなく、それでも司は何度も呼び出し音を鳴らした。
涙でぼやけた視界に街灯の光が滲み、むせ返るほどの金木犀が香っていた。

***

辺りが暗くなり始め、携帯で時間を確認すると5時半を過ぎていた。
今日は6時から駅前で歌うと決めていた。
家に帰りギターを手に取る。
有以子がいなくなり、家賃のことを考えて近くのアパートに引っ越した。
その後しばらくして一緒に住んでいたアパートが取り壊されたことを知った。
マグカップを買いに行った雑貨屋もいつの間にかコンビニになっていた。
有以子と別れて3年。
人も街も変わるには十分すぎる時間が流れた。
クローゼットを開けて着替えた服は、少し時代遅れだろうか。思いながら袖を通す。
有以子が残していったコーディネートを司は難度も繰り返し着た。

ギターを抱え家を出る。
「行ってらっしゃい。」
優しい顔で手を振る有以子をふと思い出す。
何度も何度も擦り切れるほど思い出した有以子の顔は、思い出補正で実物より少し美人に仕上がっているかもしれない。
こんなこと言ったらきっと有以子はふくれっ面で「実物も美人だから」って怒るんだろうな、そう思って思わず笑いが溢れる。
有以子は今幸せだろうか?
そうであって欲しいと願えない自分はあの頃と同じずるくて弱虫なままだ。
駅に向かう道の途中、司は何度も有以子のことを思った。

いつものポジションに立ち、ギターを鳴らす。
何人か待っていてくれた固定のファンにぽつりと挨拶をする。
「今日は新曲を持ってきました。
僕がこうして音楽活動を続けている原動力になった人の歌です。もう届くことはないかもしれないけど、せめてみなさんだけでも聞いてください。」



  君がいればなあって思うんだよ

  服を選ぶ時玄関のドアを開けた時

  新しい歌が出来た時君ならなんて言うかな

  君がいればなあって思うんだよ

         (back number/君がドアを閉めた後)