カップの底に見える空
ソーサーとカップがカチャリと重なり合う音が店内に響く。
静かすぎる店内に一瞬入る店を間違えたなと思ったが、今更店を変えて仕切り直すほどの勇気はなかった。
そしたらきっと今日のミッションは完遂しない。
間を開けてしまったら私のこの決心は鈍ってしまう。
新しい世界に踏み出すことにこんなにも勇気がいるんだということを実感する。
私はまだ、切り出し方を決めかねている。
「話って…?」
先に口を開いたのは優人だった。
伺うような目でこちらを見ている。
先に声を発したのは、沈黙に耐えかねただけじゃなく、きっと私に気を使ってくれたんだと思う。
優人はそういう人だ。
名前の通りの、優しい人。
いつも私を気遣ってくれ、自分より相手を大切にするような。
そんな優人に、私は今から……。
「別れて欲しいの。」
案外さらっと、簡単に発せられたことに内心驚いた。
あんなに悩み迷っても、言葉にしてしまえば一瞬だった。
「どうして…?」
優人は驚いている風でもなく、静かに私に視線を投げかけてくる。
「もう、好きじゃないの。優人との未来が見えない。」
言葉を濁すこともできた。
だけどいつもまっすぐ向き合ってくれた優人にそれはできなかった。
“もう好きじゃない”
そうなってしまったのはいつだったのか——
私にも分からない。
何度かは「気のせいだ」と思い込んでみたり、「倦怠期 打開策」なんて検索してみたり、少し距離を置いてみたり、逆に近づいてみたり…。
それなりに努力はしていたんだけど。
ティーバッグの紅茶を何度も淹れた後みたいに、好きって感情はもう色も香りも残ってなくて、優人への気持ちというカップには、ただ無色透明の情だけが残されている。
情を飲み干して日常に戻ることもできたかもしれない。
恋心はなくなっても、新たなティーバッグを探してきて紅茶を淹れ直すこともできた。
だけど、きっとまた同じことを繰り返して、残るのはやっぱり冷めきったカップなのだろう。
「美希ちゃんがそうなら、仕方ないよね。」
諦めたような顔で情けなく笑う優人。
一緒にいた時間が長いから、この顔は無理している時の顔だと容易に分からされてしまう。
喧嘩をしてどんなに私が理不尽な主張をしても、最後はいつも「分かったよ」とこの顔で自分の意見を飲み込んでしまう。
私が愛想を尽かされることはあっても、私から離れる理由なんてあっただろうか…。
だけど、好きでなくなってしまったのだから仕方ない。
優しくて、穏やかで、暖かくて。
記念日にはいつも小さなブーケやケーキを持って会いにきてくれた優人。
たくさん愛情を注いでくれた優人。
そんな優人に返せる最後の優しさがこんなことだなんて皮肉すぎるけど、だけど私にはこれしか思いつかない。
「今までありがとう、さようなら。」
しっかりと優人の目を見ながら、自分の未練さえも断ち切るようにきっぱりと別れの言葉を告げる。
楽しかった時間が急に頭に蘇って泣きそうになったので慌ててバッグを掴んで席を立った。
瞬間、腕にぎゅっと痛みが走り、同時に
「ちょっと待って」
と声がした。
「優人…?」
優人がそんなことするなんて意外だった。
びっくりして優人の顔を見ると、目が赤く潤んでいる。
「最後にさ、嘘でもいいから好きって言ってよ。
これで最後だから。」
相変わらずの情けない笑顔。
嘘が嫌いで真っ直ぐなはずの優人にこんな顔でこんなことを言わせてるのは、紛れもなくこの私だ。
こんな顔をさせるために一緒にいたわけじゃない。
だけどいつしか優人のこの顔を見る頻度が増えて、その度に私は傲慢になっていった。
やっぱり私たちにはこの答えしか残されてないんだと思う。
優人に掴まれた部分だけがジンジンと熱く、出した答えの重みに気づく。何も言えないまま時間がすぎる。優人の顔はもう見れなかった。
「ごめんね。」
そう言ったのは優人だった。
掴まれた手が自由になり、私は足早にドアへと向かう。
お会計でお釣りをもらう時間さえももどかしかった。
溢れそうになる涙を必死で堪える。
泣く資格なんて私にはない。
しっかりと唇を噛み締めてドアを開けると、爽やかすぎるほどの青空が広がっていた。
眩しさに目を細め、目尻に滲んだ涙をアイシャドウが落ちないように薬指でそっと抑える。
この空を早く優人にも見てほしいと思った。
本日はお日柄もよく
賑やかな店内で水滴が滴るジョッキを手に持つ。はしゃぐでもなく、おつかれーと一言、ジョッキを合わせる。
ごくりごくりと音を立てて豪快に飲み干す親友の陽太の顔を眺めてから、俺もジョッキに口をつけた。
「あーーっ!うめーー!」
半分ほど飲み干した陽太は、言いながらお通しの枝豆に手を伸ばした。
「お前さ、相変わらず元気なのな。」
思わず悪態をつきたくなるほど陽太は変わらない。
「まぁね!でもそういう恵一も相変わらずクールじゃん?」
俺の嫌味に気づいたそぶりも見せず、陽太はメニューを眺めはじめた。
「そういえばさぁ…」
メニューから顔も上げず、陽太が切り出す。
いつも目を見て喋る陽太がそうしない時は大抵言いにくい話が続く。
胸騒ぎを覚えてなんとなく佇まいを正すと陽太はドリンクメニューに視線を落としたまま言葉を続けた。
「葵ちゃん、結婚すんだってよ。」
あおいちゃん、けっこんすんだってよ…聞いた言葉が意味を持つのにしばらく時間を要した。
意味を理解して、今度は聞き覚えのある名前にその名前の持ち主の顔を当てはめるのに数秒。
「…あー。へぇ、そうなんだ、よかったじゃん。」
下から覗き込むように俺を見る陽太の視線に気づいて、急いで用意した言葉を口にすると胸の奥の方がチクリと痛んだ。
「だよね、めでたいよね!」
安心したようにニコリと笑う陽太に俺の本心までは届いていないようだった。
もっとも、自分でさえ予想外だった痛みなのだから当たり前かもしれない。
「何?それ誰情報なの?」
「あぁ、部活一緒だった松尾って奴がさ、葵ちゃんの親と同じ職場らしいのよ。」
「へぇ…世間って狭いのな。」
もっともらしい相槌を打ち、心の裏では親情報じゃ確実だな…と落胆した。
相手は誰なんだろうか。
陽太が答えを知ってるかはさておき、聞きたいことは山ほどあるが俺の中のわずかなプライドがそれを許さない。
「まぁ今さらどうでもいいけどな。」
「だね。恵一にはボインの麻衣ちゃんがいるもんね。」
陽太が両手で空気を揉む仕草をするから、やめろよと笑うと、
「いやいやだってさ、巨乳は正義だよ!」といつものように巨乳について熱く語り出した。
陽太の巨乳談議から仕事の話、お互いの彼女の話、親の話と一通り話し、すっかり酔っ払った俺たちは店を出た。
「じゃ、貧乳の彼女によろしくな!」
おい!と突っ込む陽太を背にして歩き出すと、急に冴え出した頭に一人の女の子の顔が浮かんだ。
葵とは高校2年の時同じクラスになった。
葵から告白されて付き合い出して、卒業して俺が地元を出てからもしばらく続いた。
でも都会の楽しさに染まり出した俺は徐々に健気に俺に会いにくる葵が面倒くさくなって、あとはお決まりのコースだった。
コンパで知り合った女と云々。
それを葵に見られて云々…だ。
コンパで知り合った女なんて顔も思い出せないのに、目を見開いて驚いた顔がみるみる青ざめて、泣き出す寸前にドアが閉まっていく光景は今でも鮮明に思い出すことができる。
あの時、俺は追いかけることもできずただ押し寄せる後悔の波に飲まれていた。
そのままお互いに連絡を取ることもせず、随所に思い出の残る家を引っ越し、社会人になり、そうして葵にとっての俺も、俺にとっての葵も“過去の人”になった。
思い出せる葵の顔は10代の頃のちょっと芋臭い化粧っ気のない顔だけだ。
あれから何年も経っているのだからそれなりに歳を重ねて、垢抜けているのだろう。
俺が想像できるのはウェディングドレスを着た芋臭い顔のままの葵だけだ。
「ただいまー。」
ドアを開けると部屋が明るいことに安堵した。
パジャマ姿でソファに座る麻衣は眠そうな顔でおかえり、と俺を受け入れてくれる。
俺の心中など悟られないようにいつも通りを装って麻衣の隣に座る。
「どうしたの?なんかあった?」
「なんもねぇよ。」
「そっか。なんか疲れたような顔してるから。飲みすぎちゃった?お水持ってこようか。」
立ち上がろうとする麻衣を制止して麻衣の太ももに頭を乗せる。
柔らかい太もも、お風呂上がりのボディソープの香り、上を見上げればたゆんたゆんなおっぱい。
完璧だな、と訳の分からないことを思うのは麻衣のいう通り飲みすぎたせいだろうか。
「酔っ払いけいちゃんは甘えん坊さんですねー。」
そう言って幼児をあやすように背中をトントンと優しく叩く麻衣にふと愛しさがこみ上げる。
意識が遠のいてしまう前に言ってしまおう。
陽太に聞いた話に触発されたのかもしれない。
酔った勢いなのかもしれない。
でもそれでもいいじゃないか。
「麻衣、結婚しようか。」
無事言い切った俺は、返事を聞くより先に遠のく意識に身を任せた。
届かない歌
平日の午後4時——
理由だけでは続けられない
アイボリーのVネックのノーカラーブラウスにベージュのレースタイトスカート。足元は7センチヒールのブーティーを履いている美織は、カフェから窓の外を眺めていた。
ここに来るまで羽織っていたキャメルのチェスターコートは椅子の背もたれに畳んでかけた。
前日に吟味に吟味を重ねて選んだコーディネートは、シンプルだけど自分によく似合うものばかりだ。
せっかくお気に入りの洋服に身を包んでいるというのに待ち合わせの時間から30分も過ぎても尚ここにいる自分が急に滑稽に思えてくる。
美味しいものでも食べて帰ろうかな…と思っていると、右手に握りしめたスマホがブッと短く唸った。
「ごめんあと3分で着く!」
通知だけ確認して、美織は慌てて荷物を手に取りトイレに向かった。
リップを塗り直し、前髪を整えてコートを羽織る。
鏡の中の美織はもうすっかり柔らかい表情をしていたので、違うでしょと心の中でつぶやき自分を戒めた。
店を出ると、ちょうど信号が点滅し赤になるところだった。
走れば間に合うかもしれないと右足を蹴り出そうとした瞬間、視界にすっと現れたスーツ姿の男性に美織は顔を綻ばせる。
「ごめんな、美織。」
ほんの少し息を切らしてすまなそうな声を出しているが、その顔は優しそうな笑みをたたえている。
許されるであろうと思い込んでいて、そこから出る余裕がそうさせていることを美織は知っていた。
男が差し出した手に自分の右手を絡ませながら
「うんん、お疲れ様。」
と可愛く答える。
もう帰ろうとしていたことはもちろん伏せた。
手を繋いだ時の指に金属が当たるゴツゴツとした感触には最早何も感じなくなっていた。
美織が今手を繋いでいる武田祐輔は美織の彼氏だ。
そして同時に"誰か"のものでもある。
美織が武田と出会ったのは1年前。
その日美織は友達と2人でバーで飲んでいた。
酔っ払った友達がふらふらとトイレに立った隙に話しかけてきたのが武田なのだが、その時から既に武田の指には指輪がはめられていた。
「美織お腹空いてる?」
武田の問いに美織は首を振る。次の言葉は分かっていた。
「じゃぁ行こっか。」
想像通りの言葉を言い、ぎゅっと手を握り足を早めた武田に黙ってついていく。
歩きながら何度もこれで最後、これで最後と繰り返しながら。
5分と歩かず“いつもの場所”に着く。
繁華街から少しだけ離れたところにある所謂ホテル街。
美織と武田は何度となくここに通った。
迷うことなく1軒のホテルのエントランスをくぐる。
水色のライトで照らされたクリスタル風のライオンの像が入り口横に鎮座し、その周りには南国風の植物が植えられている。
「ちょっとオシャレじゃない?」
初めて来た時に武田はそう言って笑っていたが、美織は内心悪趣味だなと思っていた。
中に入ってすぐ部屋を選ぶ武田の後ろにちょこんと立ち視線を外す。
このホテルは値段が4段階くらいに分かれているのだが、武田はいつも上から2番目の価格の部屋を選ぶ。
最初のうちは「ここでいい?」と問われコクリと頷くというやりとりもあったのだが、いつの間にかそれはなくなっていた。
エレベーターに乗って部屋に着くまではお互いに何も話さない。
武田がこの時何を考えているのか…何度となく考えては見たが、到底答えにはたどり着けそうになかった。
後ろめたさや愛情や不安、混ぜこぜになったいろんな感情を必死で押し殺しながら、後悔も高揚も美織への愛情もどれも感じ取れない温度の手を握り、表情を確認する勇気もなくただドアが開くのを待つ。
ドアが開く間際、これで最後ともう一度心の中で繰り返した。
ピカピカと部屋番が光る扉をくぐり、靴を脱ぐとすぐに武田が後ろから美織を抱きしめた。
「コート脱ごうよ。」
と腕に手をかけて離そうとする美織を無視してくるりと向き合わせ、再び強く抱きしめる。
「会いたかった…遅れてごめんな。」
泣きそうな声で言う武田に思わず美織も腕を回す。
武田の唇が優しく美織に触れ、その瞬間好きだなぁという気持ちが溢れ出してくる。
「好き…」
なんで遅れて来たのか。なんですぐホテルなのか。
言いたいことはいくつもあったはずなのにその全てを塗り替えるように武田への愛情が美織の中を埋め尽くしていく。
ここに来るまでに何度も繰り返した決心がモロモロと崩れて行くのが自分でも分かった。
次を待つように下からじっと武田を見つめる。
それに応えるように唇を重ねる武田。
最初の優しい触れ方が嘘のような激しく貪るようなキスに必死で応えるうちにさっき崩れた決心の残骸さえも溶けて消えていく。
離れたくない、好き、好き、好き…。
***
シャワーを浴びて着てきた服に再び袖を通して部屋に戻ると、武田は眠っていた。
頬をそっと触ってみたが起きる気配はない。
頭の横に置いてある携帯に手をやる。
見られることを想定していないのか、パスコードの入力をすることもなくホーム画面が開かれた。
初めて見るホーム画面に胸が締め付けられる。
幸せそうに笑う女性はウエディングドレスを着ている。
隣に立つ武田は今よりも少し若く、見たこともないようなデレデレした顔で女性を見つめている。
そういえば昔フォトウエディングをしたんだって言ってたっけ。
「嫁がしたいっていうからさ、嫌々付き合ったんだ。」
確かそう言っていた。
全く“嫌々付き合った”ようには見えない表情で写っているこの写真を今でもホーム画面にしている。
私はこの人の何なんだろう…。
何度も繰り返した自問自答。
どんなに考えても答えが出ないのは分かっていた。
武田に聞けばどんな答えをくれただろう?
優しいこの人のことだからきっと言葉を濁して、言葉を駆使して、優しく甘い嘘を吐いてくれただろう。
だけど美織には聞けなかった。
聞いていればもっと違う結末があったのかもしれない。
震える手でトークアプリを開き、自分の連絡先を削除した。
続いてトーク履歴も消去する美織の目からは次々と涙が溢れ出し、頬を伝いシーツに点々と跡をつける。
携帯を元の位置に戻し、武田の頭を撫でてみる。
まだ胸に残る愛しい気持ちを必死で振り払う。
横で一緒に眠れたらどんなにいいか…だけどそれではまたこの日々を繰り返してしまう。
甘くて優しくて、苦しくて、辛くて、出口の見えない毎日を。
美織がこの人の横でウエディングドレスを着られる日はきっと来ない。
そんなことは最初から分かっていた。
分かっていたはずなのに、心のどこかで望んでしまっていた。
叶うのなら誰かの幸せを犠牲にしてもいいとさえ思っていた。
でも、その願いが独りよがりだったことにたった今気付いてしまった。
犠牲になる幸せは“誰か”のものであり武田本人のものなのだろう。
「最後に気付けて良かった。」
せめてもの強がりは誰に聞かれることもなく部屋の隅に消えていった。
溢れ出る涙を拭うこともせず、コートを羽織り足早に部屋を出る。
エレベーターに乗りながら自分の携帯からも武田の連絡先を消す。
一番高い部屋にはしないケチなところも、かといって安い部屋にはしない見栄っ張りなところも本当はあんまり好きじゃなかった。
待ち合わせに遅れてくるところだって、指輪を外さずに抱くところだって、本当は嫌だった。
そんな男に若い人生捧げてたまるか。
きっと武田は美織がいなくなったってまた同じことを繰り返すのだ。
精一杯強がって美織は前を向く。
下品なネオンの光る街を背に、振り向くことなく歩き出した。